アムロ☆ジンの鬱鬱雑記

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太政官決定
明治 9年 7月     「松島開拓之議」 武藤平学
明治 9年 7月13日 外務省に対して「児玉貞陽建白」    児玉貞陽 ※松島開拓
明治 9年 7月?    「松島着手之階段見込」
渡邉洪基「松島之義一」「松島之義二」を表す。
明治 9年12月19日 ウラジオストック領事に対して「松島開島願書並建言」 斎藤七郎兵衛
明治10年 1月27日 東京府知事に対して「竹島渡海之願」 戸田敬義
明治10年 6月 8日 東京府知事戸田敬義の願を拒否
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| 未分類 | 17:08 | トラックバック:0 | コメント:29
竹島之議二
     竹島之議二
松島と竹島即ち韓名蔚稜島は聞く所に寄るに一島二
名あるが如しと雖も旧鳥取県令に聞くに全く二島の
由と認め又戸田敬義加藤 金森謙なる人の書に隠岐
国松島西島松島の一属なり土俗にて次島と云より海上道規
丸四十里許北方に一島あり名を竹島と云う云々又伯州米子
より竹島迄海上道程百四十里許あり米子より出雲に
出て隠岐の松島を経て竹島に到るなり但し隠岐の福
一謂福浦より松島迄海上道程六十里許松島より竹島
迄四十里許云々又竹島より朝鮮へ海上道規四十里許と
云此説は享保九年昔属渡海せる一老叟に詰問せられ
し時其答に伯州会見郡浜野目三柳村より隠岐の後島
へ三十五六里あり此遠見の考を以て竹島より朝鮮山
を見れば少し遠く見れば凡そ四十里許りと云うに因
る云々是を以て考うれば二島あるは瞭然たるが如し
洋書に就いて按ずるに英のインペリヤールガセットル
にダケレツト島即松島は日本海の一島にして日本島
と朝鮮半島の間にありその西北の○北緯百三十七度
二十五分東経グリーンチイツチよりの算百三十度五十六分一千
七百八十七年ラペルーズの名くる所周囲九里海巌の
絶壁之を境し其最高処に至るまで樹木森々なり又リ
ワピンコット著プロナオンシンクガセッテルゼヲー
ルッドにダゼラは日本海ノ小島にして日本朝鮮の殆ん
ど中間にあり周囲は八里北○北緯三十七度二十五分東
経百三十度五十六分とあり之を地図に徴するに英海
軍測量図載する所ダゼラ即松島と題せるは其地位
に著に載する所の如し英のロヤールアトラス仏ブル
ーエの大図英女王地理家ゼイムスウイルドの日本朝鮮
図ゼルマンヲーペルス亜細亜國千八百七十五年ゴッ
タノスチールスのアトラスウアイセルの地理局の図
皆同地位にダゼラ島を置き英測量図には○線を以
て限るものの外は東経百二十九度七八分北緯三十七
度五十分にアルゴナウト即竹島と題したる者を置
て魯西亜の地図局の図にも同処に之を慥かに置て
又金森謙の書に竹島周囲大凡十五里とあり又戸田敬義
の図私船の測量を総計すれば二十三里余りとなる
九曲屈出入を合わせ沿岸去れば彼松島即ち「ダゼラ」島の
周囲と異なる事少なからず而し図中南隅に一里半周囲の一島を載す
これ于山島なるべし眞(「其」か?)図に就て測量するに隠岐島と松
島竹島朝鮮の距離凡そ符合すされば松島竹島の二島
なるは殆ど判然なり唯我国の書に竹島之事のみ多く
して松島の事なきは大小貧富の差より竹島に往来
するのみにして且朝鮮との争論も竹島にのみ関係し
たる故と思わる此島の外国の認むる処を図に徴すれ
は英国の諸図は対馬島と合せて朝鮮の色とし仏も亦
同じゲルマンゴタスチーレルスの図には対馬と合せて
日本色とし唯ウアイマルの地理局図のみ対州を以て
日本色とし松島竹島を朝鮮色とて英仏の対州を合せて
朝鮮色にせしは対州既に日本版図に相違なければ
随て松島竹島を其色を変せん即ちスチーレルの図は
此結果なるべし況や松島竹島を以て伝う其語は日
本語なり因を考うれば此島は暗に日本所属と見做し
たるべし偖我国と朝鮮との関係を論ずれば旧幕府無
事を好むより竹島を以て唯彼地図に蔚陵島と均しき
と其地の遠近を以て朝鮮に譲与せりと雖も松島竹島
二島あり松島は竹島より我近方にあれば日本に属
| 竹島 | 21:23 | トラックバック:0 | コメント:0
『竹島渡海一件記 全』
朝鮮持地竹嶋渡海一件大略

        石州那賀郡濱田松原村
         今津屋きく方ニ
         無人別ニ罷在候
           當時無宿
            金清事
             八右衛門申口
              申三拾九才

一私義朝鮮持地竹島渡海仕候始末
  御吟味御座候此段私義先達書面
  松原浦ニおゐて今津屋八右衛門ト家
  号名前差出廻船壱艘所持直乗船
  頭渡世いたし罷在右竹嶋最寄之
  海上松前表渡海之船請ニ而私儀も
  先年より度々松前渡海仕其度毎及
  悲讒候儀ニ而元来右嶋石見國海

  岸より亥子之方ニ當り海上百里余も相隔
  一名鬱陵嶋とも相唱候空嶋ニ而草木致
  繁茂地先ニ者鮑其外魚類夥敷寄
  集居候様子見請候付右嶋渡海之
  上草木伐出漁業ニ而もいたし候ハハ自
  己之徳用不及申莫太之御國益
  可相成ト心附渡海願取方之儀寄
  勘弁罷在候折柄七年以前寅七月
  松平越中守様御領所越後国村々御年

  貢米江戸表之運賃積引請同国
  新潟おいて夫々積入直積致出帆候
  私請度々難風逢翌卯七月江戸表
  着船之上其筋御廻米届方之儀
  □船いたし乗組水主共ハ不残暇差置
  私外自用有之其侭町宿逗留

  いたし罷在其頃前書濱田表之儀
  先松平周防守様御領分中ニ而御同人
  江戸御屋敷詰御家来勘定役村井
  荻右衛門方知る人付同人長屋
  見廻罷越候節竹嶋渡海志願之次第
  相咄其砌周防守様重役柄中
  付御勘弁を以右嶋渡海之儀私
  被差免候様相成候ハハ周防守様御勝手

  助成筋ハ勿論第一御国益之一番
  ニ付取扱之儀荻右衛門方相頼候
  處右迠ニ而者不慎相聞候間篤ト取
  調内様書差出試可申旨被相答候付
  承知致旅商立歸積致勘弁内
  存書取調文面之儀致悲讒
  候次第ニ而者竹嶋之外松嶋ト唱

  石見国海岸より子之方當リ海上

  七八拾里斗相隔候小嶋有之右松竹両
  嶋とも全空嶋ト相見其侭被差置候
 も残念之至付草木伐出漁業をも
  いたし候ハハ自己之徳用而己ニ無之莫
  太之御國益も可有之ト見込右付周防
  守様ヘ冥加銀差出方之儀稼試候上
  歩合取極可申旨両嶋渡海之儀内願
  仕事之良自筆下を以相認同八月日不覚

  荻右衛門方へ持来いたし候處直様同人
  上役周防守様御家来勘定頭大谷作
  兵衛方へ斗被召連倶々右書付披見之上
  再應両嶋之次第被相尋前同様
 相答之処追可被及沙汰有一先可致帰
  國旨作兵衛被申渡候付其趣相心得外
  用向取片手同十一月日不覚江戸表出
  立同十二月晦日陸路ニ而帰国いたし候處

 翌辰正月十一日周防守様在所詰御家老
  岡田頼母方召仕橋本三兵衛より私呼寄
  右内存書江戸表より頼母方へ相廻有之
  良申聞見込之儀再三相尋候付是又前
  同様申答頼母勘弁を以渡海相成候様
  取扱之儀三兵衛へ相頼置候處同月十八日江戸
  詰荻右衛門方より私へ向書状至来文面之趣
  意竹嶋之儀日出之地共難差極候付

 渡海目論見相止可申段申来候付其節始
  右之次第承案外之至ニ而志願空敷相成
  残念存即日三兵衛方へ右来状持参いたし
  頼母方勘弁之儀相頼置其後様子尋
| 竹島 | 19:42 | トラックバック:0 | コメント:0
独島=石島か?
神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 第19集
暮らしのなかの技術と芸能―中国江西省と韓国鬱陵島―


2 鬱陵島への定住とその生業

 鬱陵島は1882(明治15)年に開拓令が出され韓国人が定住する
ようになったが、それまで国家の空島政策により韓国人の定住がなかっ
た。その定住の経緯を李永官氏(1921年生まれ)は次のように語っ
ている。

 鬱陵島の90パーセント以上の人々が江原道、慶尚北道、慶尚南道
から移住してきた人々である。全羅道からは機帆船が、船を造るため
の木材を運ぶ目的で鬱陵島へ来ていたが住み着く人はほとんどいな
かった。

 鬱陵島へは、110年前位から再び韓国人が住み始めた。その前には
日本人も居たようだ。
 開拓された当時、玄浦、沙洞に最初に人が住み着き、台霞洞が行政
の中心だった。日帝時代には700人位の人が台霞洞にいた。小学校
が台霞洞と道洞にあり、韓国人も一緒に学んだ。道洞には日本人の学
校もあった。
 1903(明治36)年に、郡庁が港の良い道洞に移った。当時は
家もまばらで、日本人はおもに浜辺に近いところに、韓国人は上の方
(山の方)にも住んでいた。
私は1921(大正10)年に浦項で生まれた。父はそこでニシン
の大敷網をやっていたが、3年連続の不漁のため失敗し、破産して、
私が8歳のとき鬱陵島へ移住して日用雑貨商店を開いた。
 私は1950(昭和25)年当時、浦項にいた。あの当時は人民軍
(北朝鮮軍)が攻めて来たので蔚山あたりへ逃げた。鬱陵島は人民軍
が入っていないというので安全だと鬱陵島に関係がある人たちが言ったの
で、船を一艘買い切って1950(昭和25)年の冬頃ここへ来た。
 私が鬱陵島へ移住した8歳の頃は島の人口は7,8000人だった。
日本人は5,600人いたようだが、それは主に船主や雑貨商や官
公吏だった。私は、松江の中学校から戻ってしばらくと、1950(昭
和25)年以降をこの島で暮らしている。
 植民地時代、ここはサバがよく採れてそれを追って日本人が多く来
た。鬱陵島に戦前住んでいた人々が、日本に引き揚げて島友会というの
を作っている。鬱陵島に来た人はほとんど鳥取、島根から来た人々な
ので本部は鳥取県の境港にある。
 最新的なイカ釣り道具を隠岐の漁師がもって来た。漁船も昔は韓国
の漁船と隠岐島の漁船とではちょっと趣が違った。鬱陵島の漁船はほ
とんど日本の隠岐島の形だ。この島には隠岐島から来た船大工もいた
し韓国人の船大工もいた。船材の杉は境港から運んできた。
| 未分類 | 06:09 | トラックバック:0 | コメント:0
第六十七號 明治三十八年一月五日對島艦長海軍中佐仙頭武央ヨリ水路部長ニ提出セルリヤンコールド島概要
リヤンコールド島ハ一帯ノ狭水道ヲ隔テゝ相對峙スル二個ノ主島ト其ノ周囲圍ニ碁列スル小嶼ヨリナル洋中ノ一小群嶼タルニ過キス此ノ小嶼ハ概ネ扁平ニシテ上面僅カニ水上ニ現出シ主島ノ周邊ハ奇觀ヲ呈スル洞窟ニ富ミ共ニ海豹群ノ棲窟タリ主島ハ全部殆ト不毛ノ禿岩ニシテ海風常ニ全面ヲ嘗吹シ一株ノ樹木ナク南面ニ於テ野草僅ニ苔生スルヲ見ルノミ全周ハ斷崖絶壁軟性ノ岩層ヨリ成リ周邊何レヨリスルモ攀登殆ト不可能ニ屬シ全島平坦ノ地ニ乏シク水道ノ兩側ニ於テ狭小ナル平坦ノ礫地二三箇所アレトモ皆洋濤ノ襲来ヲ免レス東島ニ於テ菰葺ノ假小屋アリ海豹猟ノ爲メ夏季此ノ島ニ渡來スル漁夫ノモノニシテ當時著シク破壊シ僅ニ其ノ形跡ヲ止ムルノミ其ノ破損ノ状況ヨリ判斷スルニ此ニ附近ヲ蹂躙スル風波ノ猛威察スルニ餘リアリ試ニ風浪ノ鋭鋒ヲ避ケ得ヘキ家屋建築用地ヲ他ニ求ムレハ僅ニ左記二箇所アルニスキス

 (イ)西島ノ東面ニ山崩アリ其ノ傾斜頗ル急ニシテ上半ハ殆ト直立シ到底攀ツル能ハサレトモ下半ハ稍緩傾ヲナシ辛ウシテ其ノ中腹マテ攀登スルヲ得此ノ處地質強ナル岩層ニシテ之ヲ開鑿スレハ三坪弱ノ平坦地ヲ得ヘク東風ノ外悉ク遮蔽シ得
 (ロ)東島頂部ハ一見平坦ナル部分多ク家屋建設ニ適スル如クナレトモ之ヲ踏査スルニハ経路ニ多大ノ工事ヲ施スニ非サレハ局地ニ達スル能ハサルヲ以テ實見シ得サリシモ海洋ノ蠻風ニ對シテ四周暴露ノ難ヲ免レス然レトモ獨リ南端ニアル平坦地ハ三四坪ノ廣サアルヘク西北ノ一方ハ遮蔽セラルゝモノゝ如シ

此ノ如クニシテ全島絶壁斷崖一溪地ヨリ隣溪ニ至ラントスルモ亦小舟ニ依ラサルヘカラス
西島ノ西南隅ニ一ノ洞窟アリ其ノ天蓋ヲナス岩石ヨリ滴出スル水ハ其ノ量稍多シト雖モ雨水ノ滴下スルト同様ニシテ之ヲ採取スルコト困難ナリ此ノ他數箇所ニ於テ山頂ヨリ山腹ニ沿ヒ滴瀝スル水アルヲ發見セルモ其ノ量僅微ニシテ其ノ経路ハ海豹ノ尿屎等ニ依リ汚染セラルゝヲ見ル試ニ東島ノ東南隅ニ於テ滴下スルモノヲ採取シ檢スルニ一種異様ノ惡臭ヲ放チ黄色ヲ呈シ既ニ汚水タルヲ證セリ而テ化學的檢査上左記ノ成績ヲ得到底飮料ニ適セサルヲ認ム

   理學的反應 黄色有臭微溷濁酸性反應 格魯見多量 硫酸多量 硝酸ナシ 亞硝酸ナシ 石灰少量 安母尼亞少量 有機質中量

海豹猟ノ爲メ渡來スル漁夫ハ海上平穏ナルトキ島水ヲ採取シ煮炊ノ用ニ供スレトモ飮料(茶水)トシテハ他ヨリ持チ來リタルヲ用フト云フ
之ヲ要スルニ本島ハ痩タル禿岩ニシテ海洋ノ蠻風ニ露出シ其ノ猛威ヲ避クルニ足ルノ面積ヲ有セス炊クニ燃料ナク飮ムニ水ナク食フニ糧ナシ聞ク毎年六七月ノ頃海豹猟ノ爲メ渡來スルモノ數十名ノ多キニ達スルコトアリ是等ハ皆一囘約十日間宛假居ヲナシ猟獲スルモ尚餘リアルヘキニモ拘ラス六七月季ノ外來航スルヲ欲セサルハ蓋季節ノ風浪ニ對シ避難ノ途ヲ得ルニ苦マシムルニ基因スルモノナラン


以上、明治37年(1904年)11月20日軍艦対馬によるリアンコールド岩調査報告である。
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